ドゥルーズ 流動の哲学 [増補改訂]
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今まで読んだドゥルーズ関係の本では一番「わかりやす」かった。「わかりやすい」というのは、思想や要点を勘弁に記している、ということではなく、ドゥルーズは結局何がしたかったのか、ドゥルーズの哲学観のようなものが、一番手にとりやすかった、取り組みやすかったという意味。 なぜ「わかりやす」くできたかというと、ドゥルーズの哲学を初期から順に追っていくスタイルだったことが一番大きいかなと。ベルクソン、スピノザ、ヒュームの哲学をどう解釈してこうなったのかが見えたので「あー」と腑に落ちた。 腑に落ちてわかったことは「ドゥルーズはまともじゃないな」ってこと。正しくもないし正確でもない。使える、役立つわけでもないし、まあほとんどがナンセンスだと思う。ただ、これはある種の人にとっては非常にかっこいいことはよく理解できた。
ドゥルーズが自分は苦手なのだが、それがなぜなのかもこの本を読んでよくわかった。大きく2つ。
1つ目。否定系の二元論でしか語らないんすよね。彼。自分の哲学を。なので文章を読んでいくと「これこれこういうものでもなく、またこういうものではない、ものとして、そうではないあり方で、ただ、どこまでも、あれではないものとどれでもないものとのそれでないものとして、そうなのだ」的な語りばっか。で、「従来の哲学とはこう違う」「こういう概念じゃないこんなの」ばっかやってる。研究者は否定するかもしれないが、ほんとただの二元論だと思います。ずっと「そうじゃなくて!」って言い続けてるだけのオッサンって感じ。本人は多様なものを多様なままに、さまざまな可能性を必死に語ってるつもりなんだと思うが、その「多様」の語り方がワンパターンなので、詩的な修飾やその気持ちよさを除くと、マジで何も残らない。フランスはパリのインテリが、お気楽な立場から現実にろくにコミットせずにモニャモニャ言ってるだけ。 もう一つは彼の哲学観。「概念の創造」が哲学!という明確な哲学観をお持ちなのだが、概念とは「何かを映し取るものではない」、命題とは違う!という考えの持ち主なんですよね。だから「その概念=言葉、記号がきちんと自分が言いたいことを言えているのか」という発想がそもそも発生しない。つまり、ドゥルーズと最も相性の悪い哲学者はウィトゲンシュタインなんですよね。なので、分析系の伝統にいる自分には「単なる言ったもん勝ちのおっさんじゃん」ってなる。 また、哲学とは概念であって討論ではない、むしろ討論は哲学に反するものだという、そういう考えをドゥルーズは持っているので、たとえば真理や存在を、主観的な現象学を批判しながらも、他者との関わり合いの中に置いていく発想と多分相当相性悪い。自分は分析系だが、ドイツの、アーレントやレヴィナスなどについては「問題意識はわかる」というか、大変重要だと思っているので、「概念の創造が哲学だ!概念は世界をうつしとってるんじゃない! 独自の内在性、内的平面なんだ! 討論は関係ないんだ!」と言われると「それって、私がこういうイメージで世界をとらえてますよーという自己開陳以外に何か意味あんの?」って真顔になってしまう。 狭い真理観や哲学観に閉じこもらず、開かれてあること、とんでもなくイミフなものが出てくるのも哲学の伝統だし、それはいいんだけど、それにしたって「じゃあ、現実でドゥルーズというお道具箱から何が使えるか」というと、かっこつけや人を騙して自分だけ知的に優位にたつフリができる、以外に本当に何にも使えない。
たまにいいこと言ってたりもするのだけど、そのいいことっていうのが「精神分析はダメだ!」とかそのレベルで「そんなのそりゃそうでしょ.....」でしかないってのもなあ。 これだけ書いてなんだけど、この本は本当に読んでよかった。これ以上、ドゥルーズ相手にしても無駄だってわかったから。一応、彼の主著、差異と反復、アンチ・オイディプス、千のプラトーなどはたまに目を通しておく、くらいはするかもだし、したいと思うがそれで十分。 あと、結局、ドゥルーズは「わかった」というか「わからん」というか、もうそこは「言ったもんがち」だと思う。自分ですら「わかった」フリ、これを読めばできるなって思った。